セカンドキャリア塾開講ストーリー/Dialogue for Everyone株式会社取締役 北村貴
2020年10月に始まった第1期セカンドキャリア塾。
個性豊かな1期生、全国の熱中小学校の皆さん、インターンシップを受け入れてくださった地域の企業の皆さまはじめ、関わって下さった多くの皆様のおかげで、セカンドキャリア塾はこの度、さらにパワーアップして第2期(2021年4月開始)を開講させていただく運びとなりました。
第2期開講にあたり、当社取締役 北村貴に、セカンドキャリア塾をなぜ開講しようと思ったのか、開講に至るまでのストーリー、現在の想い、そして北村自身のキャリア観についてインタビューしました。
(代表取締役 大桃のインタビューはこちら→https://dialogueforeveryone.com/2021/02/20210210/)
これまでの経歴を教えてください。
北海道十勝に生まれ、高校を帯広で過ごした後、進学のため上京、新卒で石油メーカーに就職しました。しかし、短大卒かつ女性の私には、男性と同じような仕事はさせてもらえず、すぐに自分のキャリアの上限を感じました。そこで、入社2年目で、当時、学歴関係なく女性が活躍していた人材派遣業界に転職しました。
そこで働きながら「自分は何がやりたいんだろう」と日々考えていた時に、ある方から「君は凄く日々の生活に不満が多い。その不満を解決することを仕事にしてはどうか」と言われました。その言葉に興味を抱き、詳しく聞いたところ、その仕事とは“マーケティング”でした。
「これは面白い!」と思い、何の経験も無いにも関わらず、すぐに片っ端からマーケティング会社に履歴書を送りました。結果、マーケティング会社で社長秘書として採用され、そこから毎日、社長に「秘書でなくマーケティングをやりたい!」と訴え続け(笑)、ようやく1年後に念願のマーケティング部署に異動しました。それが25歳の時です。
そして26歳の頃、お付き合いしていた彼氏がきっかけで、インターネットの前哨となるパソコン通信に出会いました。やり始めてみると、人と人がどこにいてもリアルにつながる面白さやスピード感にすぐにのめり込みました。そこで「これをマーケティングのツールとして使うのはどうか」と務めていた会社に提案してみたものの、当時はまだまだネットに対しての認識が低い時代、誰にも理解してもらえませんでした。それならば自分でやろうと思い、29歳の時にインターネットマーケティング会社「株式会社マーケティングジャンクション」を立ち上げました。
―その後、北海道にUターンされたのですね。
1995年にITバブルが到来し、ありがたいことに会社は軌道にのりました。
しかし、東京での生活は華やぐ一方で、正月やお盆に地元の十勝に帰省すると、街がどんどん衰退していく姿を目の当たりにしました。それを見た時、若気の至りもあり・・・、ここで何かお役に立てることがあるのではと思い、37歳の時にUターンを決意しました。
しかし、いざUターンしてみると、予想外に地元には一切受け入れてもらえませんでした。Uターンするにあたり、自分の仕事として、北海道の食品を販売するECショップ事業の準備はしてきたのですが、地域とのすり合わせは全くしていなかったんですね。確かに、地域の人にとっては、突然、無茶苦茶に生きて来た私のような人に来られ、あげく、好き勝手に振り回されたら困るとの思いがあっても仕方ないことだと思います。結局、そこから、地域に受け入れてもらえるまで、約3年かかりました。
本当に長い潜伏期間でした(笑)。
その時に「地方で働きたい人のためのインターンシップがあればいいのに」と思ったんです。実際に、多くの方が、何かの役に立ちたいと移住しても、私のように地域に受け入れてもらうのに時間がかかったり、なかなか馴染めなかったりと困っていらっしゃる。それで心が折れて移住を辞めてしまう方もいます。
それを防ぐためには、移住を考える方のために、移住前に、地域の人と実際に仕事をしたり会話をしたりと、地域にとけ込む助走期間が必要だと感じました。その期間があれば、実際に移住してからも、私のような潜伏期間なく(笑)スムーズに地元に入り込める、つまりその分、持っている力をいち早く発揮することが出来る、これは受け入れ側としても嬉しい話ですよね。
37歳の時の自身の実体験が、現在のセカンドキャリア塾の地方インターンシップに繋がったんですね。セカンドキャリア塾(旧:ふるさとみつけ塾)のコンセプトでもある、自分のふるさとを見つけるという構想はどのような考えから至ったのでしょうか。
東日本大震災以降、一つの拠点のみを持つ事はリスクが高い、何かあったときに頼れる場所がもう一つあった方が良いと感じるようになりました。複数拠点を持っておく事は、災害の多い日本で生きる上で、リスク分散になります。
また、たとえ今の場で自身に限界を感じていても、場所を変える事で自分の持っているスキルが新たに生きるということを、私は今までの経験を通して実感しています。その事を皆様にお伝え出来たらと思いました。
そして何より、拠点を複数にすることで、自分自身のワクワク感が2倍にも3倍にも広がっていくと思っています。そして拠点といっても、単に旅行や遊び目的での拠点ではなく、地元の人とも距離が近く、心落ち着ける、本当のふるさとのような拠点を持った方が、将来的に自身の人生にプラスになる事の方が多いと思いました。
熱中小学校をセカンドキャリア塾の学びの拠点にしたのはなぜですか?
まず、1点目の理由として、熱中小学校では生徒間に損得勘定も上下関係も一切存在しないからです。なかなか大人になってから、経歴や職種関係なく、フラットに人間関係を築ける場は少ないですよね。
しかし熱中小学校では、キャリアも年齢も飛び越えて、入学すると全員1年生という一括りにされます。その中で、“学び”を切り口にして、生徒同士が自然と仲間になっていく、そういった環境が非常に面白いと感じました。
2点目として、熱中小学校は「熱中」という言葉通り、本当に熱量が高いんですね。多くの方は年を取ると、情熱をそそげるものが少なくなる、そして自分の殻を固くしてそれを破ることがなかなか出来ない。ですが熱中小学校にいると、周りの熱量に影響されて、「皆やっているから自分もやっちゃえ!」と簡単に殻を破る事が出来る、そうやって熱量が伝染していく面白さが熱中小学校にはあります。
貴さん自身が、第1期セカンドキャリア塾を通して得た事はありますか。
「与えられた場所で輝く」というキーワードを見つけられた事です。
私自身もそうですが、年を取り、どんどん処理能力が落ちていくと、時代の変化についていくことも、若い頃と同様にやりたい事だけをやり続けることもなかなか難しいと感じています。そうなった時に、外から与えられたポジションに対して、今の自分が出来ることで貢献し続けられる個人になることが、重要だと思うのです。
例えば、第3回目のワークショップで登壇頂いた高村教授は、コンサルティング業界の第一線でずっと働いておられた方。しかし50代で北海道に移住した後、前職と同様の職を探すもなかなか仕事はなかったと。高村さんがすごいのは今までのキャリアへの執着を捨て、自分の価値観を見つめ直されたことで、今は前職とは全く異なる場(北海道科学大学)で、とても生き生きと働いていらっしゃいます。
それを聞いた時に、自分のキャリアや考えに固執せず、与えられた場所や求められた場所で、今の自分が出来る事は何かと意識チェンジ出来た方だけが、セカンドキャリアを成功させられると実感しました。
−日頃から今の自分が出来る事を整理しておくことが必要ですね。
はい、今の自分が出来ることを明確にするためには、会社名とか職種の棚卸しではなく、自分のスキルの棚卸しを整理することがとても重要ですね。
そして、棚卸しする際は「マネジメント力」といった単一の言葉でまとめるだけではなく、「部下の課題に気づいて励ましながら導くことが出来る」といったように、誰にでもわかるような言葉で、細かく自分のスキルを列記出来るようになると、やれることも広がります。
先日、第1期セカンドキャリア塾の卒業式が行われました。第1期を終えた、現在の感想を教えてください。
ものすごく必要なプログラムだなと思いました。
いきなりセカンドキャリアを考えましょうと言ってもなかなか一人では出来ないですよね。それが、セカンドキャリア塾では、セカンドキャリアへ一歩を踏み出すための一人一の具体的な解決策が提示される、それは今まであったようでなかったプログラムです。
また、セカンドキャリア塾は、地方からの期待や注目がとても高いんですね。地方にとっても、急に都会からよくわからない人が来られるのは困ってしまう、でもセカンドキャリア塾であれば、人間関係を構築した上で徐々に地方に入って来てもらえる、それは非常にありがたいとのお声を頂いております。
また、地方副業や地方インターンを斡旋するサービスは、世に段々増えて来ましたが、セカンドキャリア塾の参加者は自分のスキルをしっかり棚卸しした上で、インターンに応募するため、アンマッチがとても少ないんですね。それも、地方から求められている理由です。
現在、地方から沢山の期待の声を頂いておりますので、今後ぜひ広域にこのプログラムを届けていきたいですね。
貴さん自身のキャリア観について教えてください。これまで、セカンドキャリア塾だけでなく、様々なことに貴さんは挑戦され続けています。貴さんのそういった姿勢の原点やきっかけはあるのでしょうか。
私は高校3年生の冬に、突発性難聴となり、2ヶ月程入院しなければならない時がありました。その時、同室に2人の女性がおり、一方は私と同じ病気の50代の女性、一方は生まれつき耳がない2歳年上の女性でした。その女性は、耳の再建手術が成功し、すごく幸せそうな顔で「音楽が聴けるようになった」と喜び、そして「これからの私の人生は幸せだ」と目を輝かせていました。3人の中で、明らかに一番重症なのにも関わらず、彼女が一番キラキラとしていました。
その時、人生は考え方や捉え方一つで全て変えられると気付きました。
この先、どんな大変なことがあっても大丈夫、自分の考え方を変えればいいだけ、それ次第でプラスにもマイナスにもなると、高校3年生の時に気付けた、この出来事が私の全ての原点ですね。
挑戦に対して怖いと思った事はないですか?
もちろん怖いと思う事はあります。でも、「これが出来なかったら」とか「これがダメだったら」と頭で考えすぎない、本当に自分のやりたいことや自分のワクワクする気持ちを何より大事にしています。
今後、また挑戦しようと思っている事はありますか?
現在54歳ですが、60歳以降は実家の家業でもある林業を始めようと思っています。そのために、今色々な準備をしているところです。新しいビジネスも、2021年に始める予定です。
上手くいくかどうかはわかりませんが、何歳になっても自分をアップデートし続けたいですね。
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